円覚寺:鎌倉 鎌倉五山二位 鎌倉の禅を代表する大寺 国宝の舎利殿や洪鐘、季節の花など見所多数
住所:神奈川県鎌倉市山ノ内409
☎0467-22-0478
拝観料:500円(大人)
休:無休
拝観時間:3月~11月 8時00分-16時30分 12月~2月(8時00分-16時00分)
駐車場:なし(円覚寺周辺の一般有料駐車場)
アクセス:JR横須賀線「北鎌倉駅」下車、徒歩1分
マイカー:横浜横須賀道路「朝比奈IC」より20分
- 創建当時は総門・三門(山門)・仏殿・法堂(はっとう)・方丈が一直線に並ぶ典型的な禅宗様伽藍配置であった。
正式名:瑞鹿山円覚興聖禅寺
山号:瑞鹿山
宗派:臨済宗円覚寺派
本尊:宝冠釈迦如来
開基:北条時宗
創建年:弘安5年(1282年)
開山:無学祖元
寺格:大本山、鎌倉五山ニ位
別称:
札所:鎌倉観音霊場第三十三番、鎌倉地蔵霊場十四番、東国花の寺百ヶ寺鎌倉11番
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「円覚寺」は正式名称を「瑞鹿山円覚興聖禅寺」といい、「建長寺」と同じく禅宗のお寺である。
鎌倉幕府8代執権北条時宗が円覚寺の創建を発願した。
時宗は当時鎌倉にいた師と仰ぐ建長寺初代住職蘭渓道隆が没してしまったため、代わりとなる高僧として無学祖元が来日した。
円覚寺の創建については、中国に帰国しようとしていた無学祖元を引き止めようとしたという事情もあったと言われる。
弘安5年(1282年)に無学祖元を開山に迎えて開堂供養が行われた。
鎌倉にはすでに時宗の父・五代執権「北条時頼」が創建した禅寺の建長寺が存在していたが、官寺的性格の強い同寺に対し、当初の円覚寺は北条氏の私寺であった。
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ここ北鎌倉にも名刹は多く存在する。前回訪寺した鎌倉五山一位の「建長寺」をはじめとし、「明月院」・「浄智寺」・「東慶寺」・「長寿寺」と、そして今回やって来たのが鎌倉五山二位の「円覚寺」である。寺名は(えんがくじ)と濁音で読むのが正しいとのこと。
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百寺巡礼・第五巻の47番目(五木寛之)にこの「円覚寺」が著されていて、表題には「明治の文学者たちを癒した寺」と記されている。そして”いかにも禅寺に来たという感じがする。日本人の性格をも形成していったのは、実に無学祖元と北条時宗の二人によったといえるのである”とあり、ここも鎌倉を語るうえで是非にも訪れたいと思いやって来た。
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この日は「鎌倉駅」から「北鎌倉」までJRで一駅にてあっという間に着いてしまった。
梅雨の合間の晴れを見越しての鎌倉訪問である。
JR「北鎌倉駅」の駅の改札を抜け、うっそうと生い茂る木立の中をほんの少し歩けば、いかにもここが「円覚寺」という雰囲気を醸し出して、いやがうえにもテンションが上がる。
総門の前まできて仰ぎ見ると、何となく京都の知恩院を思い起こした。その大きさに違いはあるものの、威厳を感じるのである。
階段入口には「北条時宗高御廟所」「臨済宗大本山円覚寺」の石柱があり、総門へ向かう。
総門の扁額には山号の「瑞鹿山」とある。
この山号の「瑞鹿山」の由来は、円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事によるものとされ、今も境内にはその鹿の群れが飛び出してきた穴と称する「白鹿洞」があるとのこと。
総門を抜けて、拝観料の500円を納め、なかに入る。
「明月院」では人も多かったが、こちらは規模も大きい為か比較的に人数がまばらであった。
入ってすぐ左に境内の案内版があり、その脇に閻魔十王像を祀る閻魔堂・十王堂とも呼ばれる「桂昌庵」がある。(本尊は地蔵菩薩)
鎌倉には「圓應寺」があり、こちらも閻魔大王で有名なところである。まだ法寺していないが是非にも近日中に行きたいところでもある。ちなみに
十王とは死後、人間を初めとするすべての衆生は、仏が姿を変えた十人の王に出会い裁かれるらしい。
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初七日(七日目) ⇒泰広王(不動明王)
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二七日(十四日目) ⇒初江王(釈迦如来)
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三七日(二十一日目)⇒宋帝王(文殊菩薩)
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四七日(二十八日目)⇒五官王(普賢菩薩)
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五七日(三十五日目)⇒閻魔王(地蔵菩薩)
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六七日(四十二日目)⇒変成王(弥勒菩薩)
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七七日(四十九日目)⇒泰山王(薬師如来)
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百か日(百日目) ⇒平等王(観世音菩薩)
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一周忌(一年目) ⇒都市王(勢至菩薩)
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三回忌(三年目) ⇒五道転輪王(阿弥陀如来)
以下の裁判官が加わると十三王となる
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七回忌 ⇒蓮華王(あしゅく如来)
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十三回忌 ⇒抜苦王(大日如来)
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三十三回忌 ⇒慈恩王(虚空蔵菩薩)
さて、本日のメインの山門(三門)に向かう。
この山門(三門)について五木寛之(百寺巡礼)は
”総門をぬけると真正面にもうひとつ石段があって、その先に三門がある。奥には仏殿の屋根がかすかに見える。なんとも雰囲気のある、格調高い建物だ。いかにも禅寺に来たという感じがする。”と著している。
この三門も「建長寺」ほどの重量感はないが、格式の高さを感じさせてくれる。「建長寺」同様に禅宗としての威厳さがあり「鎌倉五山の第ニ位」に相応しい趣を感じる。扁額には「圓覚興聖禅寺」とある(額字は伏見上皇の勅筆)。
この寺号「円覚」の由来は、時宗と蘭渓道隆とが寺を建てる場所を探している際、現在の円覚寺がある場所に至り地面を掘ったところ、地中から石櫃(いしびつ)に入った円覚経という経典が発掘されたことによるとのこと。楼上には十一面観音、十六羅漢像などを安置している。
三門をあとに奥正面に仏殿がある(関東大震災で倒壊し、 1964年(昭和39年)再建。鉄筋コンクリート造り)。
仏殿には本尊である「宝冠釈迦如来座像」がなんともいえぬ包容さで迎えてくれる。きらびやかではあるが、威圧さを感じない。梵天・帝釈天像などを安置し、その左端に円覚寺開山の無学祖元禅師座像がある。
天井画の「白龍図」も見事である。確か建長寺の天井画も白龍図だったかと思われるが、良く似ている。
仏殿より更に奥へ進み唐門までやって来た。
その先に百観音霊場がある。由来は百観音霊場とは西国三十三・坂東三十三・秩父三十四の統合した観音巡礼であり、円覚寺は鎌倉観音霊場第三十三番になる。
方丈(本来は住職の居住する建物)までやってきた。現在は法要・座禅会などに使われている。
仏殿東方まで戻る側道脇に本日最後の「梵鐘」にやってきた。
この石段を上った先にあり、急階段である。(下りに階段を数えたら、なんと141段。往復282段と足腰が震えていた)
寺では「洪鐘」と書いて「おおがね」と読ませているとのこと。北条貞時の寄進によるもので、正安3年(1301年)、高さ2.6メートルを超える。
高台にになっており、晴れた日には富士山も眺められる眺望とのこと。
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今回の鎌倉巡礼では、京都とはまた違った寺院と街との共存を感じる。それは鎌倉の地形にもあり、海(湘南)も山も近く独特の雰囲気を醸し出しているようにさえ思える。そして、この円覚寺はその規模の大きさに圧倒された。ここに記した記録は、円覚寺の本の一部であり、まだまだ書き記すに及ばないが、それは今後の課題に残すことになる。
そして鎌倉の禅、禅の円覚寺を痛感した。五木寛之の百寺巡礼のなかで
”禅が鎌倉および京都に固く樹立され、武人階級の間に道徳的、精神的影響を及ぼしていったのは、時宗の奨励によるものであり、ひいては日本人の生活の中に深く浸潤し、さらに進んで禅が日本文化の形成に大いに寄与し、日本人の性格をも形成していったのは、実に無学祖元と北条時宗の二人によったといえるのである”と著している。