高館義経堂 岩手県 源義経終焉の地は何故か寂しい
住所:岩手県西磐井郡平泉町柳御所14(毛越寺の飛び地境内)
料金:200円(2021年1月1日より300円)
拝観:2020年11月21日(土)~2021年3月20日(土)拝観休止
時間:8時30分~16時30分 11月5日~3月4日は8時30分~16時00分
休み:無
アクセス:東北本線平泉駅下車、徒歩20分
東北自動車道一関ICより国道4号線を北へ15分
東北自動車道平泉・前沢ICより国道4号線を南へ10分
ようやくここに訪ねることができたというのが、今の私の実感である。実に感慨深い思いでいっぱいだ。何度か奥州へは来ていたが、どういうわけか一度も立ち寄ることがなく、今日に至ってしまった。
義経の眠る終焉の地はあまりにもひっそりと、俗世間から離れていた。平泉より車で10分とかからない距離にあり、平泉の金色堂を跡にしてきただけに余計に寂しさを感じえない。高館入口付近の無料駐車場に車を止めて、道に沿って坂を少し上りきると、高館義経堂拝観券発行所がある。この高館義経堂は毛越寺の飛び地境内でもある。平日のためか誰一人としてここを訪れる人がいないようである。
拝観料の200円を納め、左脇の距離はたいしたことはないが急な階段を昇っていくと突き当り、右方向に「芭蕉句碑」があり、案内板に従って左へ進む。更に階段を昇ったところに本当に小さな祠一塔があった。これが義経堂である。
幼き頃より不運の中にあって、その数奇な運命に翻弄されながらも日本の歴史を変えた若き獅子を祀ったものとは思い難い光景でもあった。
義経に関しては様々な本があり、誰もがその名を知っている天才猛将であり今更語るまでもないのであろうが、史実は別にして哀愁哀惜が滲む場所でもある。
堂内を覗いてみると甲冑姿の義経公の木造が鎮座している。
義経は兄・頼朝に追われ少年期をすごした平泉に再び落ち延び藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館に居舘を与えられた。
しかし、文治5年(1189年)頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子、泰衡の急襲にあいこの地で妻子とともに自害したと伝えられている。
義経の首は鎌倉へ送られ、遺体だけがこの地に埋められて、天和3年(1683)、仙台藩4代藩主の伊達綱村が義経を偲んで小さな祠が建てられ中には義経公の木造が安置された。義経は軍略いおいては天才あるも政略においては無智であったのだろか。しかし、それも致し方ないのだろう。義経の鞍馬での幼少期、そして奥州での元服青年期を思えば、執拗なまでの血族の思いを馳せる根源が確立する。もし義経にこの政略的考えがあったなら、歴史は更に変わりあるいはここまで「義経」賛美はなかっただろう。故に沢山の義経伝説が生まれたのだろ。
堂の右側を見ると眼下には北上川が悠々と流れ、義経が人生の最後に見たであろう景色が変わることなく存在する。
戻る途中、芭蕉句碑に立ち寄るとそこには、義経没後500年後の元禄2年(1689年)、俳諧・松尾芭蕉が門人・曾良を伴い平泉を訪れた名勝、奥の細道の風景地とある。
芭蕉は、100年にわたる平泉文化を築いた奥州藤原氏の栄枯盛衰や、この地で自害した義経公を思い、
”三代の栄気一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。
(中略)「国破れて山河あり。城春にして草青みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪を落とし待りぬ。
夏草や 兵共が 夢の跡”と詠んだ。(平成26年に高館を含む13箇所が、芭蕉が俳句に読んだ景勝地として指定されている)
尚、武蔵坊弁慶の墓は別の平泉金色堂より来る途中の街道沿いにあったが、こちらもまたあの”弁慶”かと思わせる様相に寂しさを感じ得なかった。